地上の洞窟

どこにも行かず、液晶と「にらめっこ」し続ける人の物語。

探すということ

私たちはいつも、何かを探し求めている。
けれど、探すという行いを理によって主体的にするならば、それは大体「知っている」ことしか見つけられない、致命的な矛盾だ。
知りもしなければ、上手く行った試しもない中で、「見つける」「いいものを求める」なら。
探すことは時に間違いだ。

私の暮らしにいいものとして、例えばお金が欲しいとか、困った時に助けてくれる人がいるとか。
そういうものを打ち出して探してはみるものの。

そんなものは実際の自分が「見たこともない」し。
探し続けて、上手く行ったこともない。

結局「なんか上手く行かないかな~」ぐらいのノリで探し続けてる。
いつの間にか、探すことが目的になっている。
おいおい「見つける」ことが目的だったろうにって。
だから焦るし失敗し続けるしで、なんなら騙される。

別になんだかんだ探さなくたって、よくよく思い返せば。
なんかくれる人はいるし、なんか助けてくれる人はいる。
じゃあ探す方が、よっぽど遠ざかっているのである。

昔々、私が子供の頃の作文の一節に、こんなものがあった。
「素晴らしくて大切なものは、自分のそばにいつもいることを、大人になっても忘れないでいたいと思います。」
おうおうガキの頃の自分に往復ビンタされとるわい。
ばっちり忘れとるやないかい。
正直なんでこんなこと書いたのかさっぱり分からないけど、子供の頃の自分の方が余程人間が出来てるじゃねーか!!
と、今の体たらくを見て言いたくなったりならなかったり。

もちのろん、分かっていても、探すなと言われても、無理なものは無理だ。
人はいつもいつでも強いわけではないから。

それでも前に進むなら。
心が軽々と歩き続ける方を、一心不乱に見続けるしかない。
楽しいだけでも、すごいだけでも、案外ダメなんだ。

理屈で探せないなら、心と直感で探さなければならない。
心と直感が探したがらないのなら、今は探せない。

それは探しても無駄なのだという諦めのように感じるし。
一方で単に、探さなくてもいいという、前向きなことでもあることを、私は覚えておきたい。