地上の洞窟

どこにも行かず、液晶と「にらめっこ」し続ける人の物語。

オープンソースの理想と現実

とある界隈のお話である。
その界隈は、AIによる研究が盛んで、
その研究を「ぶつけ合う」ようなことが、その人々の間で行われていた。

しかし、その界隈の人間のまるで頂点に立つような人間が零した。
「こういったAI研究のぶつけ合いが出来たのは、そのAIが無償の物であったから」と。

これが開発者の逆鱗に触れてしまったのか。
開発者は「楽しいからタダで作っているわけではない」と。
そしてひとまずの最新AIは、有償のものにしてしまったようだ。

…なぜこうも濁してここに記しているかというと、
同じ何かを無償で提供する人間として、個人的にはとても物申したい事柄ではあるのだが、
そのAI開発者は自分に比べれば、雲の上の存在といえ、とても恐れ多い。
ので、このような僻地でゴミのような文章を打ち捨てることとしたのである。


そのAIはオープンソースソフトウェアであった。
そのAIの内訳は誰でも無償で知ることができるし、それを使うこともできる。
なんともありがたい話だと思うのは誰しもがそうであることだと思う。

しかしそんなんで儲かるのか?と言われれば全くもってそんなハズはなく。

無償で提供し続けることがどれだけ、その人にとっての損失であるか、
作り手にとっては気が気でない事は確かである。それは自分も断言できる。

しかし、だからこそ、どれだけ手間暇をかけて、
どれだけ自信をもってこれは最高の作品であると高らかに主張しようと、
作り手には物理的な見返りというのは一切入ってこないことが、
どれだけの狂気を生むかというのは、自分自身はっきりと理解できる。

誰しもが、いつかは応援や支援を頂けるという邪念と戦いながら物を作っている。
しかし実際にそういうことが起きるかと言われれば、
その「人々」という単位でみても稀だし、その人「個人」で見ても稀な事である。
それが、理想と現実の差なのである。


では、作り手はなぜ無償で提供する道を選ぶのか?
それは第一に、最高の物を作りたいからであると個人的には思う。

世の中、高いお金を払ったからいいものが手に入るというわけでもない。
むしろこの世の中には無償でもかけがえのない素晴らしい物が出回っており
タダでこれだけのものが手に入る、なんて素晴らしいんだと思うことは多々あるだろう。

もっと言えばスーパーに行けば、皆「安くて良い物」を常々求めることであろう。
売り手が「そのものには金銭的価値はない」ということが
買い手には価値があることであり、開発者=売り手である環境では
自分が作った物には(金銭的)価値が無いと言い張る必要がある。
これが絶望的につらい事柄なのである。

金銭的価値があるものが価値のあるものとは限らない様に、
価値があるものに金銭的価値があるとは限らない。
直感に反して受け入れがたいが、意外とそうである。

それでも作り手は、もはや意地で、安くて良い物を作ろうとしているのだ。
きっと。


オープンソースの恩恵は多くの開発者と利用者が居る事であると思う。
誰でも参加できるからこそ、その事柄は急速に発展できる。
その代わりに、提供者である開発者は、利用者から物理的な価値が得られない。
何かをする代わりに何かを得ることが、この世の原理であるハズなのにそれがない。
沢山の人に参加して欲しいという理想のために、ある意味現実離れしている。

しかし作り手はもとより自らこの道を選んだハズである。
作り手は自分の作った最高の作品に価値が無いと言い続ける狂気と
戦い続けなければならない。
作り手は自分が選んだその道に、命を懸けて納得する必要がある。

自分はそれで何を成せたわけでもない。
しかし周りは違う。その開発者は違う。きちんと何かを成している。
オープンソースの理想に住んでいる。スポンサーもいて、支援も得ていて。
誰かからも応援されていて、誰かからの意見も得ることが出来て。
そうして自分と比べてみて、まだ何か文句があるのかと。
それだけやっておいて、今更、理想と現実の差に突然憤りを感じるものかと。
個人的にはそう言いたい。


今回のその一件は、「界隈」のAI利用者からすれば、オープンソースの本質を
外側から語っただけに過ぎないだろうと思う。
それにオープンソースの住人が、理想を見ていた人間が、
ふと現実に追いつかれてしまったのだろうか。
如何に聡明で、何かを成している過去があろうと、突然とそうなるものなのだろうか。
今の自分にはまだ理解が届きそうにない。


なんか精彩に欠け放題な文章となってしまった。申し訳ない。
(平常運転ともいえるが)